Volume#18 Editorial
エディトリアル
エージェン・オースターマン (Arjen Oosterman)
70年代の終わりか80年代のはじめごろのいつからか進歩は保守的になった。逆にデザイナーにとってこれは、それぞれの仕事が個人的な好みに基づくようになったくらいのことだったように思われる。建築家の中には自らがモダニズムに心酔していることをほのめかす者もいるにはいたが、それに支配的なパラダイムとして向き合うことは時代遅れであった。残りの者は歴史に心酔していた。でもそれがおそらく一番のポイントだろう。勝利をおさめた自由市場経済(あるいは新自由主義として知られてもいるもの)の結果として主張された「歴史の終わり」とともに、建築はその方向性を見失った。当時あらゆる種類のパーティ(党派)空間があった。ブロッブパーティ、伝統的響宴、ハードコアなテクノロジーパーティ、エコガーデンパーティ、メガストラクチャーアフターパーティ、そしてオンデマンドな個人主義からの終わりなきチルアウト。もし建築には微小な差異を作り出すことくらいしかできないだとか建築がただの差異でしかなくなったとしたら、あるいは、もし建築がベッドタイムストーリーを伝えることで事足れりとし、もうストーリーに寄与しようとしないのならば、そして、もし建築が原理的に物資を提供し、価値に重きを置かないのならば、そのとき歴史は本当に私たちの前を通り過ぎて行ってしまうのだ。
エージェン・オースターマン (Arjen Oosterman)
ノルウェイで書籍やギフトを扱う人気チェーン店ノータベネが、気候変化へのインパクトを抑えるため店内のメタルシェルフを再生紙でできた棚に変えるそうだ。低炭素社会への支持表明をなし、同企業は130ある店舗それぞれの什器や建具を100%オーガニックでリサイクル可能な材料でできたものに取り替えるとのこと。
(ノルウェー2008年11月27日付「Stora Enso Ventures」プレスリリースより)
70年代の終わりか80年代のはじめごろのいつからか進歩は保守的になった。逆にデザイナーにとってこれは、それぞれの仕事が個人的な好みに基づくようになったくらいのことだったように思われる。建築家の中には自らがモダニズムに心酔していることをほのめかす者もいるにはいたが、それに支配的なパラダイムとして向き合うことは時代遅れであった。残りの者は歴史に心酔していた。でもそれがおそらく一番のポイントだろう。勝利をおさめた自由市場経済(あるいは新自由主義として知られてもいるもの)の結果として主張された「歴史の終わり」とともに、建築はその方向性を見失った。当時あらゆる種類のパーティ(党派)空間があった。ブロッブパーティ、伝統的響宴、ハードコアなテクノロジーパーティ、エコガーデンパーティ、メガストラクチャーアフターパーティ、そしてオンデマンドな個人主義からの終わりなきチルアウト。もし建築には微小な差異を作り出すことくらいしかできないだとか建築がただの差異でしかなくなったとしたら、あるいは、もし建築がベッドタイムストーリーを伝えることで事足れりとし、もうストーリーに寄与しようとしないのならば、そして、もし建築が原理的に物資を提供し、価値に重きを置かないのならば、そのとき歴史は本当に私たちの前を通り過ぎて行ってしまうのだ。
いやいや、私たちはべつに歴史に別れを告げたわけでもないのだった。そしてどうやら歴史はまたもやニヤニヤしながらドアのあたりをうろついている。未来が戻って来たんだ!近年どうも眼中から外されていた建築が再び注意をよびかける。サステナビリティが手助けをして、ゴールを、目標を、なすべきことと課題とを設定してくれた。そして新たな「パラダイム」は簡単に吸収された。建築家はもう一度世界を救えるのだ!彼らは自らの「サステナブルな活動」や「エコなデザイン」を宣伝する。学校は修士課程にサステナブルデザインを取り入れようとし、一方で建築産業はサステナブルな解決を提供し、政府はサステナブルな政策競争に参戦する。サステナビリティはポリティカリーコレクトな語彙になった。要するにやりたいことを耳障りの良いようにしてくれるラベルのことだ。
上のノータベネ(何この名前?)のプレスリリースからの引用はこのトピックを巡る混乱を示している。サステナビリティの名の下に行われる意味のない多くの破壊の一例だ。実際昨今のビジネス業界ではサステナビリティ市場へと投資が行われており、プロダクトやら企業やらがこぞってサステナブルを謳うほどにとかく重要なものになっている。その行為が実際に地球規模の気候問題解決に寄与するかどうかはさして重要じゃない。これは長きにわたって本当に意識的にやってきた熱心な建築会社の人たちに対して有利な結果をもたらしてくれるわけじゃない。例えばゼロエネルギー建設やら素材や要素の最大限の再利用やらに関する専門的知識を彼らが集めやすくなるかというと、そうじゃない。楽観的な大ボラふきとの差異化はそれほど簡単 じゃないのだ。これじゃあまたもや手段と目的とを取り違えることになりはしないか?
これを調査しようと思うとなかなか難しい。実際、未来をつくることと未来の成立可能性とを明快に差異化することは重要だ。建築は世界をその滅亡から救うための道具として、あるいは魂の喪失から人類を救うための道具として駆り出される。建築は多くの名でもって巨人を制服することを、未来への道を解放することを予期されている。その未来がどうなるのかはさほど議論されないし、その敵対者の真の性格だって認識されてない。ノー・ユア・エネミー、これが重要だということをすべての兵士は知っている。ということで、よりよい視座を獲得するためにその野獣を描写してみよう。
さて、その野獣は単なる敵というわけではない。巨大で圧倒的な多頭の怪物だ。ヘラクレスがヒドラと戦ったという神話にもある通り、一つの頭を切り落としても新しいものが生えてくるだけだ。エネルギー消費の問題がちょうどいい例になるかもしれない。建物に関して言えば、伝統的な反応はこうくる。断熱しろ。それでエネルギー消費は減るかもしれない。でもそうすると換気の問題が出てくる(エネルギーを無駄にせず新しい空気を入れるなんてどうしたらいいんだ)し、排出(多くの素材がなにかしらの排出物を生み出す。 とはいえそれらがもはや住宅から排出されないからこそ、私たちはより長いことそこにさらされているわけだ)の問題もある。だからあなたのお財布と気候に何がいいかというと、自分が死ぬことだったりする!そしてこの議論は問題の技術的な側面についてしか語っていない。これは発明と問題解決の領域だ。基本 的には科学がうまいこと解決してくれるだろうという信頼によっていたりする。でも例えば社会的あるいは経済的サステナビリティだとか、サステナビリティの違った側面を伝えるとき、なにが実際示唆されているのかについてなんのヒントもない。ましてや解決戦略なんて持ってるわけがない。
そういうわけで、サステナビリティをチェックするための—例えばどんな種類で、とか何のとか—、そして生存という目的を真剣に考えるためのものごと、要するにサステナビリティという状況が実現したときにどう未来を志向するのかとか、どのように地球規模の社会をアレンジしたいのか、ということをもっと考えたほうがいい。でもそのまえにちょっと立ち止まってみると、世界がゼロエミッション、ゼロ人口やゼロエネルギー消費へと真剣に取り組み始めようとするそのとき、急にゼロ成長やゼロ利益が切迫した問題として現れてくる。
これはあるパラドックスに鋭く焦点を当てる。というのは、余剰へと対処するためにはシステムの成長が不可欠だということだ。今や成長は縮小傾向にあり、もっと言えば不況がますます環境的目標を規定するようになって来るだろうが、市場が持ち直すやいなや、他種の生産、消費そして生活方法へのコンバージョンは今よりもっと現実的でなくなるだろう。
国連事務総長の潘基文(バン・キムン)による、政府支援がグリーン投資という形をとったことの言い訳(世界のトップの少なくない数からの支持を受けている)は慎重だったが、それもすでに新自由主義陣営によって却下されている。他方で左派は平等主義社会をつくりだそうと、そして根本的に新自由主義的社会モデルへとつながっているあらゆる種の搾取を廃止しようと準備している。
一方でこう言うこともおそらくできるのではないか。つまり私たちの生きる都市状況への異なった視点をつくるための余地がもっとあるかもしれない、と。信用危機は私たちに再度、原理的に資本価値を基にした社会をつくり続けるべきなのかという問いへと向かわせる。1970年代のオランダでの叫びはこうだった。居住場所はひとつの権利だ。その権利は地球上の数千万もの規模でまだ達成されておらず、今や数十万もの人が立ち退きを命じられその権利を否定されている。ベルリンの壁の崩壊によって「ポスト社会主義都市」について語ることができるようになった。今はポスト資本主義が精査される時ではないか?企業ロゴとしての都市を超え、特権的集団の創造的プレイグランドとしての都市を超え、ある社会としての新しい都市の可能性が調査されるべき時では?
それから都市の空間的秩序を再評価すべき時なのではないか?食料、燃料、財政の三つ組みのなかでも後二者が近年強調されているが、食料生産やその配分は長く大きな問題を生み出している。二世紀の産業生産と増加する規模は空間化(単一文化)へと至り、生産と消費の拡大へと至る。時を超えてこのプロセスはグローバルなものになっている。でも昔日の知恵は今日の批判だ。気候に関する議論の圧力下で、より相関的でより統合された空間モデルを生み出すために、食料生産や都市のそれぞれを組織するということが突如として可能なこととなったかに見える。都市農業(あるいは幾人かが呼ぶところの大都市農業)はまさに相違する概念—スタックしたランドスケープにおけるハイテク商品から、嗜好や社会的関心事を伝達するという基本的な目的とともにあるバルコニー、屋根、植え込みといったDIYの変種まで—を隠してしまうが、そこではすべて新たな空間的モデルが発展されんとしているのだ。
こうした難しい状況のなかでの良いニュース。建築(最も高いレベルでのプランニングを通して)は再び動き出す。「自然」や「人工」「保護」あるいは「共生」「開く」「閉じる」「隣り合って暮らす」「ともに暮らす」ということの意味を明らかにすることで、建築はもう一度空間の政治的側面へと関与するのだ。
下訳/さかきばら
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