Volume#21 Blockbuster
ブロックバスター
エージェン・オースターマン(Arjen Oosterman)
数年前、中国の都市化に関するいくつかの指標が少しずつ西洋のそれにまで追いついたとき、一般的な反応は沈黙せる驚愕だった。文化的プログラムかと思われた「20×20」だが、あきらかにこのコードは約20諸国全体への等価な住宅供給に立脚したものだった。たった20年で4億人のための都市。これは合衆国の人口全体よりも多い。
このニュースは容赦なくある事実をつきつける。西洋におけるコンスタンティノス・ドクシアディスの都市発展に対する考えが地区や近隣へと制限されていたが故に、都市や地方のスケールに関して今後取り組まれることはほとんどないという事実。オランダにおいて20万人の都市を計画することは無謀なことだと考えられており、これは他の西洋都市においても潜在的には同じことだ。
エージェン・オースターマン(Arjen Oosterman)
数年前、中国の都市化に関するいくつかの指標が少しずつ西洋のそれにまで追いついたとき、一般的な反応は沈黙せる驚愕だった。文化的プログラムかと思われた「20×20」だが、あきらかにこのコードは約20諸国全体への等価な住宅供給に立脚したものだった。たった20年で4億人のための都市。これは合衆国の人口全体よりも多い。
このニュースは容赦なくある事実をつきつける。西洋におけるコンスタンティノス・ドクシアディスの都市発展に対する考えが地区や近隣へと制限されていたが故に、都市や地方のスケールに関して今後取り組まれることはほとんどないという事実。オランダにおいて20万人の都市を計画することは無謀なことだと考えられており、これは他の西洋都市においても潜在的には同じことだ。
今日、世界で最も栄えている地域において、人口増加よりも深刻な問題として人口減少がとらえられている。でも世界を見渡してみれば今後40年でざっと30億人分の住宅が必要とされるだろう。さらに議論されるべきは、絶対的によろしくない状態にいま住んでいる10億人の居住をどうするのかという問題なのだが、それがなされていない。
というか、何が起こったのだ?大量の公共住宅を供給したんじゃなかったのか? どうなっているんだ?
オランダでは建築的職業は潜在的に住宅建設と同義的だと考えられている。一世紀のあいだ公共住宅のデザインを経験したにとことによって、オランダの建築家は抜群の住宅スペシャリストとなった。でも戦後「大規模」への対応が中心的問題となった「再建期」を終えると、注目は総体的にデザインの個性化へと移っていった。ユニークで、文脈やライフスタイルに密着したプロダクトの発展。個々人中心を旨とすることで、大規模居住地区の匿名性に対する批評はだいたいそんな感じで建てられるすべてのものを徹底的に拒否することになる。おそらく私たちは受容と供給とがわりと的確に調和しているような社会に生きている。多分それは発展的段階の問題なのだ。つまり一定量の人口に適正な住居を提供した後には、より安定した段階が続く(居住水準の持続的な上昇が考えられるが)。そこではより個別的な対策が可能となる。というよりは、おそらくこれは歴史的に見ても特有の瞬間だ。この国の人口の大部分がほとんど個人的にアプローチできるようになったわけだから。それは個人的な幸せだとか成長だとか個性だとかはファサードやフロントヤードにあらわれてくるもんだ、と私たちが愚かにも考えてしまうような集団的妄想と等しい。
オランダや他のヨーロッパでは、見取り図、反復、そして画一化へと別れを告げたつもりでいるが、それは言う程決定的なものなのなんだろうか?持続可能な究極的個性化へということ?例えばロシアの人口70%にあたる人々のための、都市環境を収容したり提供したりする大量建設や住宅の工業生産から学ぶべきものはない?他方、大は「小」を兼ねる的経験から学ぶべきものもない?いろいろあるだろうが結局、オランダやヨーロッパにある複数核を持つ田園都市の外側では、大量住宅建設機械がトップスピードでズルズル動き続けているのだ。
だからブロック単位で答えを見つけなければならない。この問題に関してBart GoldhoornとAlexander Sverdlovは個別化されたテーラー型大量居住建設への基礎としてブロックを提示している*1。こうした議論は差異化、多様性、ユーザーへの影響や自由と同様に、まずアフォーダビリティ、建設過程(定期的に許可、認証そして協議手続きを拡大して行く)、生産速度、ヴォリューム、フレキシビリティ、変容可能性そして反復に対応しなければならない。一定の多様な提案が、都市発展やブロックレベルでの建設プロセスの合理化を経て、繊細な個別的自由を導入したり、自発的にコストを操作可能にしたりするために提示されている。このレベルにおいて西洋建築局は専門的知識を輸出することができるが、ラテンアメリカにおいても同様に魅力的な実験や諸経験が存在するのだ。
より根本的に言えば、それは共に住むこと、つまり社会ということに関するものだ。大量居住建設はしばしば集合住居建設と呼ばれるが、この二つには大きな差がある。大量住居建設は問題解決を試み、そうすることで現状を確認するという目的において住民をモデル化する。最善の、最も高い物質的なレベルでそうするのだ。一方集合住居建設のほうは、政治的側面、相互干渉あるいは集団力学を伴った組織形態を示唆している。経済的データとしての大量と政治的存在としての個 人との間にある差はここにおいて重要である。
それとはまた別の社会組織が始まるのはまさにブロックのレベルにおいてであり、 行政その他の権威によって、あるいは総体としての社会によって押し付けられた諸価値や規範に沿って住居が提供されるのもブロックのレベル、また実験的なことが実現のチャンスを得るのもまたブロックのレベルにおいてである。ブロックとは個人の選択が効果的になりうるレベルなのだ。
ここに「抵抗」という語が関与してくる。「抵抗」(ハロー!1970年代、まだそこにいるかい?)というまさにその考えは1980年代に疑われ、にもかかわらず今日ではより肯定的に評価されているようにも感じられる。それは不安定な地位にあったし、いまでもそう。だから「余白」にまつわるものだとされがちで、 サステナビリティだとかこの宇宙の将来だとか(とりあえず挙がるだけでも)「現実的な」問題に集中すべきだ、とかなんとか言われつつ議論の俎上からおろされてしまいがちなのだ。
大量住宅の政治的側面を知ることによって、都市という織物の「オープンさ」がもう一度問題となる。
*1 この問題は、ロッテルダム国際建築ビエンナーレ(IABR2009)のための「コレクティヴ・シティ」展のキュレーターであるBart GoldhoornとAlexander Sverdlovとの共同によって着想発展された
下訳/さかきばら
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