openlab.12|【レポート】8月21日「オクパ—メイキング・スペース・イン・ザ・シティ」
8月21日17:00より、LABORATORY(a.k.a.radlab)にてopenlab.の第12回、トークセッション「オクパ—メイキング・スペース・イン・ザ・シティ」を開催した。このセッションは8月8日までLABORATORYを占拠した「AO」さんらによる企画「OKUPA」 のタイトルを引き継ぎ、そのときの文脈には目をつぶって、「オクパ」つまり「占拠」「占有」といったキーワードをテコに都市空間の使用/創造を考えていこうというもの。前半「つくるオクパ」では建築の側面から、一方後半の「つかうオクパ」では社会学の側面から、それぞれの分野で活躍され研究を続けられるお二方ずつにプレゼンならびに議論の口火を切っていただいた。内容は参加者のお一方につぶやいていただいたのでこちらをご参照の上その骨子を推測していただけたらと思います(いつもありがとうございます)。
ふたつの「オクパ性」
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まず最初に、端的に言って今回のセッションの構造には大きな壁があった。扱う「オクパ性」の違いである。具体的スクウォッティングの持つ「オクパ性」 を扱う前者と、公共的な場所である都市に施主というごく一部の「所有者」の願望に沿って建てるという行いそのものが持つ「オクパ性」を扱う後者とでは、それぞれ全く異なった層にある「オクパ性」を対象とする。建物の使われ方は常に変化し、故に建築家の想定とは常にすれ違う運命にある。もしかたしたら、このすれ違いにこそ建築家をめぐる現在的な問題が見えてくるかもしれない、ということを期待しながら、今回のトークセッションでは、この平行線をたどるであろう二つの「オクパ性」が交差しうるのか否か、もしそれが可能ならばどこでそれが起こるのかを私たち主催者にとってのひとつの課題とした。
今回はその課題に即し、各人の発言に当たりながら内容を振り返ってみたい。
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さて、オクパ、つまり占拠や占有といった考え方から一体どのようなイメージが浮かんでくるだろうか? まずひとつには、空き家になった空間を自らの手で自分たちの場所に書き換えてしまうようなスクワットの例が挙がるだろう。建物や土地の所有観念が強固であり、スクワットがそのまま「占有屋」のような暗い側面をイメージさせるだろう日本において、オクパは「不法なもの」というイメージを背負っている。とはいえ、じゃあ諸外国ではスクワットが肯定的にとらえられ推奨されているのかと言えば、実はそんなことはない。後半、社会学的側面から見た具体的オクパの話から、実は海外においてもスクワットが「どこでも歓迎されているわけではない」 ことが示された。ここで例に挙げられた、法制度上日本よりもスクワットに「有利」なオランダはアムステルダムの状況だけを見ても、そもそもその絶対数自体が減少傾向にあることが分かる。世界中どこででも、スクワットはそれほどイメージのよいことではないのである。
久保田裕之さんからの口火:「不法」占拠が引き起こす「共犯」(?)関係
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では彼らはどうするのか? ここでポイントとなるのが、オクパするにあたりいかにして周辺住民との間に「共犯(?)関係」を築けるのか、ということだ。これ によって必ずしもオクパのイメージが良くなるわけではないが、他方で「不法なもの」というレッテルのみによって排除される危険性も少なくなる。興味深かったのは、久保田裕之さんが簡潔にまとめられたアムステルダムでのスクワットがどのように周辺環境へと定着していくのかについての定式だ。スクワットする者らはあるビルをスクワットする際、その場所を自らの住処とするだけではなく、その一部をだんだんとカフェや映画館といった半ば公共的機能を持つ場所に変えていくことで周辺住民の利便を満たし、かつ究極的にはそこに集うものたちの雇用までまかなえるようにする。この利益がどうなっていくのかについては後述するが、既存空間の書き替えにあたり、利便性から攻め、周辺住民の生活に「あってほしい」空間をつくりあげ、既成事実をテコにすること。「共犯関係」の結び方のひとつはこのように考えられる。
久保田裕之さん
唐突にはなるが、例えば景観問題をコミュニケーションの問題としてとらえてみたとき、そこに欠けているのはこうした戦略的な関係性の持ち方だと言うことはできないだろうか。建設が景観問題の名の下に反対されるとき、そこには建設そのものの暴力的なオクパに対する周辺からの反射的な拒否感があるように感じられる。こうして考えてみると、冒頭で触れた「課題」つまり「オクパ性」の二つの層がすり合うポイントがどこかということに関して、ひとつ「他者との関係性の取り方」というものが考えられるのではないだろうか。以下、久保田さんが提示された海外でのオクパという文脈からはやや離れるが、関係性という観点から前半の議論を眺めなおしてみよう。
武田憲人さんの場合:施主と共に「特殊物件」へ立ち向かうこと
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京都を拠点とし、まさにその都市において施主との共同作業的改修を多く手がけられてきた設計事務所「expo」武田憲人さんの試みには、施主というこれからの使用者との関係の結び方における興味深い例を見せていただいた。建物自体も敷地、つまり読み込むべき重要な条件としてとらえる彼らの目線は、武田さんが強調する「特殊物件」というキーワードによってうまく表されている一方、スクワットのような具体的「オクパ性」の姿勢を仄めかすようでもある。端的に言えば「ちょっと変わった物件」とも言い得てしまう「特殊物件」は、ややもすればただの難あり物件にもなりかねない。こうした条件に対し、肯定的に、施主とともに向かい合う。この「協同関係」を経ることで、出来上がった空間に施主が抱く愛着はいや増すであろう。実際、彼らが手がけた参考物件が京都に長く定着し、しかも名の知れたものとなっているという事実がそれを証明しているようでもあった。
中西ひろむさんの場合:介入先の居住者との間の了解
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他方、「expo」さんと同じく京都を拠点とする建築家中西ひろむさんは現在、瀬戸内国際芸術祭にプロジェクトを出展されている。瀬戸内海に浮かぶ男木島という「よそ」で、彼は友人の庭師とともに、場所の風景を変化させるようなインスタレーションを行う。中西さんにとってインスタレーションと建築との差異は、自らが造るか/他者がつくるかに焦点化されており、ある環境に事物を介在させ風景の認識を左右させるという点においてその同一性が際立っている。建築とインスタレーションとの間に共通項として「オクパ性」がある、とでも言えるだろうか。ただ、それとはまた別の層において、彼の話の一端から興味深い発言が聞かれた。曰く、自分たちの試みは男木島にお客として訪れた観者よりも、むしろ地元の人の方がいち早く理解してくれたように思う、と。これは少なくない期間をその場所に介入し、慎重にその場所を読み込みながらプロジェクトを進められた中西さんが、その場 所に住む人々との間に「了解関係」の種を蒔き得た例としても見ることができるようだった。
武田憲人さん
こうして前半の建築パートを振り返るに、当初おぼろげに想定していた都市への介入が不可避的に持たざるを得ない「オクパ性」についての議論は、そうしたオクパが持つ具体的効果を示すような広がりを持ち得たのではないかと考えている。では、以下、上記二例のような「空間をつくること」への比較として、次に後半「空間をつかうこと」の話を少しさらってみたい。坂田堅治さんが見てきたもの:ハブとしてある創造性の集う場所
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創造都市(クリエイティヴシティ)構想において、新たな価値を生み出すことこそ芸術あるいはクリエイティヴクラスに託されたミッションだが、その際に「ハブ」となる場所が必要であるという着想から、坂田堅治さんはオクパされた場所とそれが都市にもたらす影響について研究を行う。実際に自ら足を運び、当事者の話に耳を傾ける彼の調査方法にまず魅力を感じ、様々な例を紹介する彼の意図を以下のように読んだ。つまり、所有の概念や法制度や慣習等に大きな差がある諸外国の例を日本にそのまま適応するのは難しいが、自分たちで勝手にはじめてしまった空間の使い方が、必ずしもスクワットではなくとも「オクパ的」効果を備え、他の創造性の呼び水になっていることもある、と。創造都市構想における諸外国の「成功」事例を日本で実現するに際し、上に挙げたような制度上の差異にこだわり、概念的なレベルでの対策が云々されそうではあるが、坂田さんはそうした点を批判的に見つつ、個々人の空間使用やそれがもたらす効果にこそ可能性を見ているとも言える。
これをいかにして政策としてフィードバックさせるのかはもちろん重要な問題ではあるが、同時に、こうした空間のオクパや場所を勝手につくり上げるというソフト面での行動に対して、ハード面を扱う建築家はいかにして介入することができるだろうか。先の二例を参考にするならば、そこでその使用者との協同を行うこと、あるいはその周辺住民を含む近隣環境との関係性を構築すること、あるいは空間使用のモデルケースを提案して土地や建物を持て余す「クライアント」を焚き付けることなど他者との関係をつくることが挙がるだろうか。必ずしもハード/ソフトのどちらかというわけではないが、空間的な問題は解決策を、それを解きうる人を待っている。今回、オクパという観点からその職能を見直すことで、建物を設計する者としての建築家というよりも、「関係を取り結ぶ者」としての役割が浮かび上がってくるようでもあった。その席に座る人をどんな名前で呼ぶかは自由だが、おそらく二つの「オクパ性」の結節点にはこうした役割が求められ、それを満たす者を建築家と呼んでも良いのではないかと思っている。
さいごに:「排除」から「なるべく歓待」へ
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シンプルにかつ理想的に考えてみるとこうなるだろうか。建物が建つ、あるいは空間ができる際に誰がどのように喜ぶのかを考え、彼らを迎え入れようと試みること。これが関係を取り結ぶ者としての「建築家」に託された任務であろう。周辺の文脈を読むということは、必ずしも抽象的概念的なことのみではなく、先に触れた、利便性という具体例をひとつの空間的なストーリーとして実現させることもその重要な一例となるだろう。「共犯(?)関係」をつくること。つまり排除ではなく、歓待(ウェルカム)の思想を。もとい「なるべく歓待」の思想を。建築家として、空間的に、実現することはできるだろうか。建てることは常に使用に遅れをとるが、これは建築家が常に使用者に遅れをとる、ということとはやや異なるのではないかと思っている。
さて、最後にアムステルダムの興味深いオクパシステムを紹介してこのレポートを終わりにしよう。アムステルダムにおいて、オクパする者らはNPOに資金援助を頼る。NPOは彼らに金を貸すのだが、彼らは上で触れたような空間づくりによってバリバリお金を稼ぐ。借金を返済し終わると、彼らは今度はNPOにお金を貸すのだ。このお金はプールされて、また別のオ クパグループへとわたっていく。とてもすばらしい設計だと思うが、このシステムにこそ歓待の思想が流れ込んでいるようにも思われる。
( RAD / S )
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