Volume#20 Fact and Friction
事実と摩擦
ジェイ・ローゼン(Jay Rosen)
聞き手:ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)、タレン・モンゴメリ(Talene Montgomery)
ストーリーをどのように伝えるのかをジャーナリストはどうやって決めるのだろうか? あるひとつのストーリーをレポートするときに彼らが負う責任とは? そしてどの程度彼らは大衆の関心を書くのだろうか? ニューヨーク大学でジャーナリズムを教えるかたわら報道批評も行うジェイ・ローゼンはこれらの問題を、ジャーナリストは大衆を表象するのか/つくりだすのかに関し長年にわたって行われている議論を引き合いに出して説明している。曰く、「大衆は見つけられることを待っているものであり、私たちが目に見えるようにしなければならない」と。この議論に付け加えるべきは、市民ジャーナリズムの到来、そしてとりわけ新たなストーリーをつくる際の大衆の役割についての議論である。ローゼンは、語られたストーリーに関するジャーナリズムの新たなモデルが生み出す問題点を正確に指摘しながら、伝統的ジャーナリズムに関する方法論の風景を通してヴォリュームをガイドする。
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ジェフリー・イナバ(以下JI)
「ジャーナリストは何のため?」という記事において、あなたは大衆の脆さを指摘しています。大衆は不変の実在物ではありえず、ゆえにその延長上で考えれば「大衆の関心」など安っぽい言葉だ、とあなたは言っているように思われます。「大衆」を規定する際の報道の役割とはどのようなものでしょう?
ジェイ・ローゼン(Jay Rosen)
聞き手:ジェフリー・イナバ(Jeffrey Inaba)、タレン・モンゴメリ(Talene Montgomery)
ストーリーをどのように伝えるのかをジャーナリストはどうやって決めるのだろうか? あるひとつのストーリーをレポートするときに彼らが負う責任とは? そしてどの程度彼らは大衆の関心を書くのだろうか? ニューヨーク大学でジャーナリズムを教えるかたわら報道批評も行うジェイ・ローゼンはこれらの問題を、ジャーナリストは大衆を表象するのか/つくりだすのかに関し長年にわたって行われている議論を引き合いに出して説明している。曰く、「大衆は見つけられることを待っているものであり、私たちが目に見えるようにしなければならない」と。この議論に付け加えるべきは、市民ジャーナリズムの到来、そしてとりわけ新たなストーリーをつくる際の大衆の役割についての議論である。ローゼンは、語られたストーリーに関するジャーナリズムの新たなモデルが生み出す問題点を正確に指摘しながら、伝統的ジャーナリズムに関する方法論の風景を通してヴォリュームをガイドする。
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ジェフリー・イナバ(以下JI)
「ジャーナリストは何のため?」という記事において、あなたは大衆の脆さを指摘しています。大衆は不変の実在物ではありえず、ゆえにその延長上で考えれば「大衆の関心」など安っぽい言葉だ、とあなたは言っているように思われます。「大衆」を規定する際の報道の役割とはどのようなものでしょう?
ジェイ・ローゼン(以下JR)
この問題は、ウォルターリップマンとジョン・デウィが行った大衆の性質に関する議論、ならびにジャーナリストである私たちは大衆をただ表象するだけなのか、あるいは不可避的にそれを生み出してしまうのか、という議論へとさかのぼります。リップマンの主張はこうです。あなたが、知るだろう大衆しか見ていないのならば、それは極めて限定的なキャパシティでしかありません。これにはそうだ、とも違う、とも言えますから政治家を引き入れることも追い出すこともできますが、究極的にはそうした認識は操作されたものなのです。なぜなら、当たり前ですが、大衆はその他のこともしているからです。彼はこの件に関してリアリストたろうとした。一方でデウィはこう言います。「賛同できかねますねウォルター。話は分かる、でも君は何か見過ごしていませんか。私たちは今までになく大衆を生き生きさせるためのより良きツールを持っています。そしてそれこそ私たちがしていると思われていることなのでは。だから君ウォルターも、そして私も、それから芸術、文化、教育、政治に関わっているすべての人々も、大衆をどうやって生き生きさせるのかをずっと考えていかないといけないんじゃないですか。」それは情報の問題というだけでなく、技術の問題でもある。なぜなら人々をうまく関らせることは、私たちが解決しなければならない社会的問題でもあるからです。だから私にとっては、そう、大衆は見つけられるのを待っているものであり、私たちが目に見えるようにしなければならないのです。そうするための客観的な方法などありません。それはひとつの技術であり、コミットメントでもある。思うに、真に優れたジャーナリストは真実を語ることに気を遣う人であり、彼らが伝えようとするストーリーに、そしてそれが効果をもたらすということに気を遣う彼らは、こう言います。「大衆を目覚めさせる」と。デウィが言わんとしたことはつまりそういうことです。
JI
報道には公的な責任があるとのことですが、ストーリーを語ること、そして事実や出来事をレポートする際、それはどのように起こるのでしょう? ジャーナリストは大衆へと情報を伝達するため、包括的かつ公平にレポートをする、ということをこの責任は示唆しているのでしょうか、あるいは大衆の関心とは何かをある程度解釈し、それに応じてストーリーを組み立てる必要があるのでしょうか?
JR
ジャーナリストは人々に何が起こっているのかを知らせる責任を持ち、私たちに真実を語る責任を持っています。それは公平性を必要とすることです。普段の生活からも分かることでしょう。ジャーナリストにならなくても分かる。もしあなたが議論の多いミーティングへ行くとしましょう—そしてあなたが見てきたことに利害関係がある他の人々は参加できないとしましょう。彼らはどうだったかとあなたに聞いてくるーそうなると、あなたは彼らに正確かつ公平に報告する責任を持つことになる。でもあなたには他の責任もかかってくる。人は起こったことだけではなく、彼らがどうやって事に関われるかも知りたいからです。彼らの参与と、状況に影響を与える能力とは、情報に対する彼らの関心に関係があり、それら二つの事がらの間には重要なつながりがあります。
それから、状況がうまく表わされているがために報道はどちらかの側につかなくてもよいような、価値が対立した通常の政治的状況がある。ただ、あなたが今いるプレイヤーに演じ続けさせようとすれば、少なからずのことが表されないまま残るでしょう。というわけで明らかに報道は状況をよりよく表すという義務を負っている。そして、真実を正しくないものに仕立て上げようと強欲なプレイヤーが積み重なった事実を取り壊そうとするような他の例外的状況もある。そのようなときには、ジャーナリストには関与する義務があるーもっと強い言葉でいいましょう—その行いをひっくり返し、あるいは他の人々がそうしようとするために、何らかのペナルティを課す義務があるのです。
タレン・モンゴメリ(以下TM)
市民ジャーナリズムとはなんでしょう?
JR
ご存知の通り、偉大な報道批評家A・J・リーブリングはかつて報道の自由についてこう語ったことがあります。曰く「報道の自由はそれを所有するものに帰属 する」と。そしてブログは誰にでも報道機関を所有できることを意味しています。それはひとつの転換であり、「市民ジャーナリズム」は単にその事実へ名前を つけただけです。人々はツールを持ち、故に彼らは報道の力を持つ。市民ジャーナリズムは「観客としてかつて知られていた人々」がそれらのツールを取り、お互いに情報を与えあうためにそのツールを使用する時代です。さて、ではそれはプロにとってどんな意味をもっているのでしょうか? 報道にとってかわるのだろうか? それはまったく違った問題です。
TM
市民ジャーナリズムとの比較によってプロのジャーナリズムを語る支配的な議論とはどのようなものですか? そしてあなたの見解は?
JR
そうですね、争い戦っていく敵対者と見なすべきではないでしょう。それは純粋なフィクションなのです。実際に何が起こっているのかに関する正確さはほとんどないでしょうが、むしろ次に述べるようなことこそ重要な問題だと言えるのではないでしょうか。
1、私たちには検証された情報が必要です。プロのジャーナリズムが存在する最も重要な理由は、もしそれがなければ存在しなかった検証システムを代表しているからなのです。彼らがなすことの本質は、単に彼らが何かを報告しているというだけではなく、彼らが検証可能なものを報告しているということです。
2、いくつかのストーリーには誰かが常時張り付いていなければ見られないようなもの—例えば調査ジャーナリズム—があります。事実を見いだすためには、それに張り付いてくれる何者かが必要となり、それがプロのジャーナリズムを肯定することになるのです。これが当てはまるかどうかは物事によりますが、くっきりと分かれているわけです。
3、私たちは大衆そのものへアクセスできる人々—役人も含む。というか、とりわけ彼ら—を望んでいます。ただ彼らが大衆全体へのアクセスを与えることは実際的ではないので、問題を提示してくれる代わりの人物を私たちは望むわけです。明らかなことですが、実際それはそうしたアクセスを持つ人々への肯定になる。なぜなら一定のストーリーはそのような方法でしか得られないからなのです。
いくつかのストーリーはアクセスを必要とし、いくつかのストーリーはそれに張り付く人を必要とし、私たちは検証を必要とする。そしてこれらすべてはリスキーなものであって、プロのジャーナリストが「待って!これは失えない」と言っているということに限って言えば、私は彼らに対して完全に同意します。彼らの側についているし、同じ陣営にいる。
市民ジャーナリズムの何がいいんでしょうか? そうですね、多くの市民ジャーナリズムは使えません。ジャーナリストが私に伝えようとする議論の少なくとも50%は、「私たち」のしていることに市民ジャーナリズムが取って代われない意見に関わっていますし・・・いや! それは完全に異なった活動ですね。こういうことでしょう—まあ別の書き手が言っていたことですが—農家市場はレストランに取って代われない。というのも、人々は農家市場に行きますが、それは彼らがレストランに行かないということではない。彼らは全く異なった理由のためにそれぞれに行きます。その二つが重複も競合もしない、というのはそういう意味です。
では市民ジャーナリズムのいいところはなんでしょうか? 必ずしも知る必要はまだないでしょう。というのも私たちはそのための良い構造をまだ打ち立てていないからです。でもひとつ挙げるとするとーブログにも言えることですが—問題に対して本当に関心がある人々にガイドしてもらうことでその問題についての新しい事柄を知ることは、例えば、ロサンゼルスタイムスに依存するよりは実際いい方法だと思います。市民ジャーナリズムのすばらしい点は、参加から生まれてきたというところであり、また別の人の参加のために生み出されているということです。ブロガー—別の新たな術を持つアマチュアーなんかはまさにそうで、技能を前面に押し出してくれている。彼らはリンクと共に書くことを身につけた者なのです。つまり彼らは—広い—ウェブの自由を手にすることを身につけたのであり、ブログを読みやすくするという形を通して十分な訓練を自らに課すのです。
JI
ジャーナリズムのハイブリッドな形態を語ってきましたが、それについて何か?
JR
私は、人々が「プロ-アマ」ジャーナリズムと呼ぶものに興味があります。究極的には最も強い形態や最良の発見はアマチュアのネットワークを受けて仕事をなす「プロ」のジャーナリストによってなされるでしょう。それはスマートウェブツールやアプリケーションを通じてつなげられ、そして新たな情報を生み出すように動機付けられているのです。
(1)For more on Pro-Am journalism, see Rosen’s site, New Assignment
下訳/さかきばら
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