Volume#28 Correlation Designing
相関性のデザイン
エージェン・オースターマン
20年ほど前、建築雑誌は「完成したばかり」のプロジェクトを下見してもらったり、内覧したり、写真を見てもらったりする機会への招待にまみれていた。10年くらい前になると、コンペに勝った提案についてのプレスリリースが情報欄にどんどん加えられるようになった。ちょっと前には特別なお知らせが出回るようになった。コンペへの提案それ自体さえパブリシティのチャンスとなったのだ。「今朝8:30に事務所をスタートさせました。新しい朝が私たちの目の前に広がり、期待に胸溢れています」みたいなことをプレスリリースが伝えるようになるまでは時間の問題と思われるかもしれない。パブリシティ、イコール、経済。おそらくそれはいまだにそうだ。でも名刺代わりのプロジェクトが、つまりはっきりと「誰々の」と認識しうる仕事が必然的に新たな業務を直接引っ張ってきたりするわけじゃない。もうそういう風にはなっていないことを私たちは知っている。大抵の西欧諸国でそうじゃないし、多くの事務所だって然り。90年代後期、縮小というものが興味深い都市現象、すなわち建築家というプロフェッションにとっての新たな挑戦として発見された。今日このテーマは最も予期しないかたちでそのプロフェッションに降りかかっている。クライアントがいない。ほんとにいないのだ。
これはどこにでも当てはまる現象じゃない。アジアではどでかいデザインタスクやら建設仕事やらを向こう数十年抱えている。ラテンアメリカだって、その先に横たわっているものがアジアが直面しているものとは比較にならないにせよ、まだ終わっちゃいない。それからアフリカ。そう、アフリカ。ちょっと付け加えておくと、デザインに対する需要と機会は十分ある。これが西洋になると、主に既存のストックをどう生かすかが問題となっている、んじゃないか? 社会における変化は新たな働き方や来るべきデザインにとっての新たな領域を示唆してくれる。
今日、新たな経済としての知識産業やクリエイティヴ産業に関する議論が百出している。でも建築にとってそれは新しいことでもない。建築は常にクリエイティヴ産業であり続けてきたわけだ。でも今進みつつある「つながり革命」は新しいことかもしれない。文字通り世界のすべてはつなげられている。あなた、あなたの子、あなたの車、あなたの犬、あなたの冷蔵庫......公園の木でさえ互いに話しはじめる。つながり、発信、交換、反応、リアクション、調整——つなげられていることは私たちの生の中心だ。つなげることは、建築や都市デザインがなさんとしていたことじゃなかったか?
これってある意味不況からくるもの? これはデザインや想像のための新しい機会を与えてくれるのか?
建築は公と私との境界にあり、また常にそうあってきた―—そのどちらか、ということはほとんどない—―ので、一見したところ固定化したような考え方も変化し続けるということから逃れられない。「周辺環境」とか「自然環境」とか。インタラクティヴ・ネットワークの時代にはそれらの意味は流動的だった。シンプルな境界がその全体性を守るということもない。私と公、空間的とヴァーチャル、先天的と後天的といった二項的考えは私たちの現状を素描したり理解したりすることの手助けにはなってくれない。私たちの精神と身体はマルチレイヤーのネットワークにおける情報を発信したり受信したりする結節点であって、かつて考えていたような自立的で離散的なものじゃないのだ。そう、建築やデザインは「生のカウンターフォームを提示する」ふりを続けるために新たな領域へと入っていかなければならない。もちろん建築が社会に左右されつづける限りの話だけど。
これはそのプロフェッションに大きな跳躍を要求するだろう。人々を感動させ高く評価され得る物理的プロダクトを提供することから、どう事物が関係しインタラクトするのかをデザインするということの間には大きな断絶がある。とりあえずここではそれを「相関性のデザイン」と呼んでみよう。いまや最近の建築の公正な安定性なんてものは疑義に呈されている。デザインのための出発点としてのプログラム、予算、そしてロケーションといった基本的なことがらもはじめから決められているようなものではなくなっている。この「プラグラム的不安定性」はデザイナーにとっての新たな、そして大きな課題として示されている。その活動にとっての核に「機能」があるプロフェッションにとって、これはシリアスな問題であった。今日、建築家はフレキシブルで、いかようにも使えて、多様な解釈を可能にするようなデザインを生み出すことに慣れつつある。彼らは機能的には今までにないほどにニュートラルな構造をデザインするというパラドックスを、より率直な存在感(への要求というか)によって解いた。それは、採用し、変化させるという建築が持つ能力の印象的なデモンストレーションだった。でもそれは高くついた。社会的には不適当なのだ。今日、建築的実践への課題はより大きくなっている。「社会なるもの」が特定の場所や時間とますますつながらなくなっている現状において、建築がその社会的重要性を再び獲得するようなやり方で自身を変化させること。言ってしまえば「自由気まま」となったわけだ。
建築的実践は公と私の空間的な質という古くからある知識に依存している、というサインがいくつかあって、それは空間や場所に新たなプレゼンスや役割を与えるための新たな社会的かつインタラクティヴなネットワークについての明確な理解をともなっている。資本のきつい再生産における次なるステップとして必ずしも必要というわけでも、消費社会への継続的順応でもなく、都市の社会的側面の再調整として。はじめにサインありき、他には何も無い。
ことはより複雑になるが、建築に対する私たちの理解に挑むようなまた別のトレンドがある。もし融合しつつあるフィジカル/デジタル世界のためのデザインが主要なタスクとなれば、そのとき私たちの周辺環境の安定性、客観性そして信頼性はまた別の問題となる。EUの「クッキーディベート Cookies debate」(誰もがCookiesに対してノーと言うべきだ)は私たちが足を踏み入れんとする世界を垣間見させてくれる。技術のトラッキングや測定はあまりに洗練され、個別的にあなたをプロファイルしアプローチし得るほどになっている。AR技術が視覚的また感覚的な環境におけるあらゆる種の付加情報を提供するのみならず、あなたへと個人的にささげられるようになるまでそう時間はかからないだろう。あらゆる個人は、動き回っている彼/彼女に付随する情報「バブル」によって包摂されるだろう。それぞれはご近所さん同士でも異なる。客観性や間主観性は過去の概念になるだろう。まあ少なくとも観察と気づきのレベルではそうだろう。スムーズで連続した表面のことを私たちは「インターネット」と呼び、この終わりなき情報や快適さの源は、ユビキタスコンピューティングをともなって、迷宮となり、つまり罠や妄想機械となる。共有され安定した「リアリティ」なるものは、少なくともデコンストラクティヴィズムの出現以来疑わしいものとなっており、今となってはより断片的になっている。リアリティはあなたへ個人的に仕えるものとなりつつあり、それをだれが調理したのかなんてますます分かりにくくなっている。
しかしこのゲームにはまた別の機会もある。この特集のなかで幾人かの著者が述べているように、「ものごとのインターネット(the Internet of Things)」は、統一性や連帯性、そしてより小さくローカルなスケールでの民主主義を生み出す新たな機会を与えてくれるかもしれない。
ここに述べたすべての領域の中には、建築のための機会もあるだろう。それを把握するための準備はできているだろうか?
下訳/さかきばら
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